80年を迎えた東京裁判を考える――戦後秩序の終わりに、日本はどこへ向かうのか
「もう一つの5月3日」
5月3日は憲法記念日ですが、今年はもう一つの節目を迎えました。今から80年前の1946年5月3日、戦争を指導した軍人や政治家らを裁く極東国際軍事裁判(東京裁判)が始まった日です。様々な批判を浴びてきた東京裁判ですが、日本がこの結論を受け入れたのは、それが戦後秩序の基礎となり、日本を繁栄に導いたからです。今、その基礎が揺らいでいます。

国会議事堂=衆議院のHPから
東京裁判では「平和に対する罪」を犯したA級戦犯の28人が裁かれ、東条英機元首相ら7人が死刑になりました。「東京裁判史観」という言葉が生まれるほど、裁判が認定した歴史を受け入れて良いのかどうか、日本では多くの葛藤がありました。おおざっぱに言えば、右派の人々は「勝者による一方的な断罪だった」と怒り、左派の人々は「天皇や731部隊などの責任を追及していない」と憤慨しました。
米ワシントン大博士課程で現代日本史と国際関係を研究し、第2次世界大戦を専門とする研究者のディラン・プルング氏は、東京裁判の目的について「勝者の正義と、連合国の共同占領という形式の中で米国の支配を強化するという狙いがあった」と指摘します。そのために、後付けで「平和に対する罪」をつくったわけです。1945年3月の東京大空襲の責任者であるカーティス・ルメイ将軍は、後に「もし戦争に負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸いにも、私たちは勝った側にいた」と語っています。
勝者の正義と米国の戦略
米国の支配強化とは何だったのでしょうか。それは、日本を「反共主義の防波堤」とすることでした。そのために、日本の既得権層を懐柔する手段として天皇制の維持を目指しました。ディラン氏によれば、1945年6月の調査で、昭和天皇を正しく認識できる米国人はわずか54%で、3分の1は「天皇は戦後に処刑されるべきだ」と考えていました。ウェブ裁判長も、戦争を開始した天皇の役割は「疑いなく証明された」と記録しています。東京裁判が客観的な史実に忠実だったとは言えないでしょう。
東京裁判を巡る葛藤は日本特有のものだったようです。ナチスドイツの戦犯たちはニュルンベルク裁判で裁かれましたが、ドイツ国内で日本のような大きな騒ぎになりませんでした。ニュルンベルク裁判で召喚された証人は、東京裁判の4分の1程度でした。比較的客観的な証拠が残っていて、政治的な思惑が入り込みにくいという事情があったのかもしれません。ドイツは第1次世界大戦でも敗戦国になっているため、「勝者の裁判」に対する諦観もあったでしょう。
日本が東京裁判を受け入れたのはなぜか

1946年6月、東京・市ケ谷の極東国際軍事裁判所で開かれた東京裁判(極東国際軍事裁判)の被告席。イヤホンをつけキーナン首席検事の論告に聞き入る(右から)荒木貞夫、梅津美治郎、岡敬純、東条英機、松井石根、大島浩、永野修身、小磯国昭、南次郎、橋本欣五郎(左手を上げている)、広田弘毅の各被告
日本人はドイツ人と異なり、東京裁判への違和感を捨てきれずにいました。では、なぜ、日本人は東京裁判の結果を受け入れたのでしょうか。