日韓両国に「都合良く」消費された洪思翊将軍 80回忌に日韓首脳の行動と現在を憂う
9月26日、以前取り上げた洪思翊将軍がBC級戦犯として処刑されてから80年の歳月が流れました。私がいま一度、洪将軍を取り上げたいと思ったのは、もはや日韓両国が洪将軍を思い出す機会はほぼないだろうと思うからです。前回、私は洪将軍を「歴史から忘れ去られた人」と表現しました。終戦記念日の8月15日、高市早苗首相と李在明大統領の発言や行動から、私はその思いをいっそう強くしたのです。
日本軍人として生き、絞首刑となった男の誇り
評論家・山本七平の「洪思翊中将の処刑」(ちくま文庫)によれば、洪思翊将軍は1889年に今の韓国・京畿道で生まれました。大韓帝国から日本陸軍中央幼年学校に派遣され、その1年後の1910年、祖国が日韓併合で消滅しました。突然、祖国が消滅する事態に戸惑いながら、洪思翊将軍は日本軍人として生きる道を選びます。44年、陸軍南方軍の兵站監に就任し、マニラに赴きました。兵站監は捕虜収容所の最高責任者でもありました。
終戦をフィリピンで迎えた後、捕虜収容所長時代の責任を問われてBC級戦犯に問われ、46年に絞首刑になりました。軍事法廷では弁明を拒み、弁護人が描いた「弱い朝鮮人の立場にあり、軍の命令に逆らえなかった」という筋書きも受け入れなかったそうです。軍事法廷で「日本人の命令を拒否することができなかった」といった、自分を保護する証言もしなかったといいます。

洪思翊将軍が処刑されたフィリピン・カンルーバンの収容施設跡に作られたといわれる製糖工場。現在は操業していない=2024年3月9日、牧野愛博撮影
洪将軍を巡って、日韓両国では戦後、都合の良い解釈が横行してきました。日本の一部には、洪将軍が朝鮮名を名乗ったことから「創氏改名が強制ではなかった証拠だ」という主張があります。しかし、山本七平の著書によれば、洪将軍は差別に悩む長男に対し、朝鮮出身であることを隠すなと諭しています。逆に読めば、長男は差別を避けるために朝鮮半島出身であることを隠したい思いがあったということです。私の周囲の大勢の在日コリアンの人々も「創氏改名が法律に基づく強制でないとしても、差別から逃れるため、日本名を名乗ることは、事実上の強制と言えるだろう」と話しています。日本側の一部の解釈は、洪将軍の人間としての生き様を都合良く解釈した「切り取り」だと言えるでしょう。
一方、韓国も今日に至るまで、洪将軍を親日派の象徴的な人物として捉えています。洪将軍の長男ら直系の親族は戦後、李承晩政権からの迫害に遭い、米国に移住しましたが、その後の行方はわかっていません。遠縁の方にも聞いてみましたが、今から半世紀ほど前くらいを境に音信不通の状態が続いているそうです。洪将軍の魂は、韓国の人々が忌み嫌う靖国神社に眠っています。(眠るしかないという表現がより正確でしょう)